平安時代初期、桓武天皇の頃、政権は自分たちに従わない力のある者を脅威として「鬼」と呼び、熊野の海賊・多娥丸も鬼であるとして、坂上田村麻呂に多娥丸征伐の命が下りました。そして、多娥丸の隠れ家である鬼ヶ城が、天人のお告げにより坂上田村麻呂に明かされてしまいます。
軍勢は攻め入ろうにも陸からは岩が厳しくそびえ立ち、磯からは強い波が打ち付け近寄ることすらできません。そんな時、沖にある島「魔見ヶ島」に童子があらわれ、面白おかしく手足を上げて歌い踊るため、軍勢もつられて大騒ぎする事態となりました。鬼ヶ城の硬い岩戸の奥にいた多娥丸が、外の様子をうかがおうと顔を出した瞬間、坂上田村麻呂の矢が放たれ、多娥丸に命中し討たれてしまいました。多娥丸の亡骸は大馬神社(熊野市井戸町)に埋葬され、この地に多く残る「鬼」にまつわる伝説の一つとして、世界遺産鬼ヶ城の名とともに今なお語り継がれています。