熊野別当(熊野三山の統括を行う役職)を父に持つ弁慶は、紀宝町鮒田地区で生まれたと伝えられています。生まれた時にはすでに3歳ほどの見た目で、髪は長く歯も生えそろっていたことから、父は鬼の子として捨てようとしますが、かわいそうに思った叔母に引き取られ「鬼若」と名付けて育てられました。
その後弁慶は、僧侶になるため比叡山に預けられましたが、その立派な体格から力勝負を好んで行うようになり、のちに乱暴が過ぎ比叡山を追い出されます。
ある時、弁慶は力試しに太刀を1000本奪おうと決意し武士を次々に襲い、ついに999本になりました。最後の1本を奪うため待ち構えていたところに現れたのが牛若丸(源義経)で、弁慶は襲撃するも返り討ちにあい、負けを認めその後は義経の家来として生涯忠誠を貫きました。最期の戦いでは、義経を守る最期の盾として無数の矢を受けても仁王立ちのままであったと言われています。
弁慶が生まれた屋敷の庭に生えていたと伝えられている大きな楠跡には、石碑が建てられており、弁慶産屋楠跡として紀宝町鮒田地区で今も親しまれています。